シッカリと自立するって、そーゆー事なのかも知れない、なんて気もする今日この頃。
全てにおいて自分で考える、判断する、決断する、自分はできていないと思われる方がいるなら、
意識してやってみてはいかがでしょうか。頭が勝手に考える様になるまで。つまり、体が覚えるまで。
お前はできてるのか?なんて質問は受け付けません。そこまでの自信があるわけではないが、
できない奴よりはできている。と思う。気がする。
全てにおいて自分で考える事、自分の頭を使って判断する事、考えないという結論を下す時でさえ、
自分の頭でシッカリと考えてから決断を下す事。大切なのはそれである。
全人類にその癖が身に付いた時、世界は大きく変わる気がする。
しょーもない情報を発信する人間さえいなくなる。かも知れない。
だって誰も信じない、鵜呑みにしない、しょーもないだけのそんな情報、
発信するだけ時間と労力の無駄だもの。
詐欺や情報操作、印象操作、プロパガンダ、そんなものに大きく左右される事のない、
確かな未来が観えてくる。そんな気がする。
まだ何も見てないさ
きっと楽しい事もある
そんなまますべて決めて
後悔しないって言えるか?どうだ?
死ぬまでずっと生きていく
周回軌道の小さな世界
その外側もあるんだ
by 東京スカパラダイスオーケストラ
「明日以外すべて燃やせ feat.宮本浩次」
ぜひ、お試しいただきたい。


それができれば悪しき偏見を抱く事も、誰かの情報に騙されるなんて事もなくなるかも知れない。
誰も騙されなければ詐欺は成立しない。
詐欺の撲滅なんかにも繋がるかも知れない。
別に騙される人間が悪いと言っているわけではなく、もちろん騙す人間が悪いのだけれど、
でもそんな社会だからこそ、人の言ったことに対して、書いてある事に対して、
何も考えずにそのまま受け取ってしまうなんて行為は危険なのである。
ろくろく考えずに結論付けるなんて真似は危険なのである。
それをそのまま信じ込むなんて事は危険なのである。

情報に踊らされたくなければ、騙されたくなければ、とにかく自分の頭を使う事である。
人の言った事、書いた事に対して、考えるにせよ、考えないにせよ、
信じるにせよ、信じないにせよ、従うにせよ、従わないにせよ、自分の頭を使ってシッカリと考えて、
その根拠を見つけてから判断を下す事、結論付ける事である。
その癖を身に付ける事である。
癖を身に付ける為のコツは癖になるまで意識する事、常に意識して物事を考える事である。
例えそれがどこのどんな偉人が放った言葉であったとしても、親であっても、先生であっても、
根拠もなくそれらを信じる事は危険である。
どんな人間だって、人間である以上、常に絶対に正しいなんて事は有り得ないのだから。
失敗もする、間違いも犯す、勘違いもする。それが人間。
根拠なく信じられる人間がいるとするなら、それは自分以外いないっしょ。と私は思うのである。
AIの発達で今後はどうなるか分からないが、
記事を書くのも広告を作るのも人間である以上、
そこにはその人の個人的な見解、感情や感想、その他偏見だったり、
思惑なんかも一緒に載ってくる可能性が高い。
この情報社会、この先もきっと延々と続いていくだろう情報過多の社会の中で、
その情報に踊らされるか、シッカリとそれらを活用できるかは個人個人の裁量にかかってくる。
ニュース以外にも昨今は詐欺広告や誇大広告なんかが溢れている。
SNSでは他人に成りすまして勝手に言葉を発信し、人を騙すケースも多く見られる。
そこに載せられた情報は事実ですらない。ニュースや週刊誌の情報もどこまで真実かなんて事は誰にも分からない。
ただの虚偽だったり、事実に枝葉を付けて大げさに書き立てただけのものだったりする事もある。
それをろくろく自分で考えもせず、鵜呑みにして騙されるなんて事は誰も望んでいないのではないだろうか。
自分でシッカリ考えず、書いてある事を鵜呑みにする、そのまま受け取るなんて人が世の中に多く存在するとしたら、
それはA先生の人生にも、B君の人生にも、自分の人生にも、世の中の人にも大きな影響を及ぼすことになる。
その場合の影響は大抵の場合、悪い方向へと向かう。
そこには真実など欠片もないのだから。大切なのは真実、つまりは人の気持ちが含まれる。
それを蔑ろにする社会に未来などない。と私は思う。
仮にB君はイジメっ子のボスで、普段からイジメを働いていて、
その日も授業中にイジメられっ子を侮辱するような発言を繰り返していたのだとする。
前に何度か注意をしていて、普段からそれを気に留めていたA先生が、
イジメられっ子の気持ちを考えて、いきなりではなく、その日初めて、
そのイジメられっ子の為にB君をぶん殴ったんだとしたら、
A先生は最悪の人間だろうか、B君は可哀そうだろうか。
それをB君が「ふざけていたらぶん殴られた」と訴え、
訴えられたA先生は言い訳する事もなく首を受け入れたのかも知れない。
その記事を読んだだけでは、その可能性もなくはないのである。
真実も分からないのに事実だけを見て何も考えずに、
A先生は悪者、B君は被害者、なんて結論付けるのは、
とても愚かな事であるし、危険な事である。と私は考えるのである。
つまり、その事実を知っただけでは分かる筈もない、本人にしか分からない事、
それが真実である。と私は思うのである。
そう、事実は皆が分かったとしても、真実なんてものは本人にしか分からない。
想像する事はできる。当たる事もあるかも知れない。
でも真実(ほんとう)のところは本人にしか分からない。
本人がその理由を語ったとして、真実を口にするとは限らない。
言わされたかも知れないし、そう言わざるを得ない状況へ追い込まれたかも知れない。
自分の都合のいい様に繕ったかも知れないし、誰かを思いやって嘘をついたかも知れない。
その理由を述べたという事実があるだけで、真実はやはりその本人にしか分からないのである。
何が真実で何が虚偽であるかなんて事は、本人以外誰にも分からない。
というのが事実と真実の違いについての私の個人的見解である。
ただ一つ言える事は、
A先生がB君をぶん殴って首になったという記事を読んで、
A先生は最悪の人間だ、B君は可哀そうだな、災難だな、なんて感想を持つ人は危険である、
という事である。
B君の真実もB君にしか分からない。
なぜ授業中にふざけていたのか。
他の生徒の迷惑になる事が分かっていてわざとふざけていたのか、
もしかしたら家庭なんかが複雑でB君なりのSOSが含まれていたのかも知れないし、
そんなもん欠片もなかったかも知れない。
人を傷つける事が目的でふざけていたのかも知れないし、
悪気なんかまったくなかったのかも知れない。
ちょっと悪気はあったけど、ぶん殴られるほどの悪気はなかったかも知れない。
B君の事を知らない私に分かる筈もない。B君の真実はB君にしか分からない。
A先生の真実はA先生にしか分からない。
普段から単にB君の事が気に喰わなかったからぶん殴ったのかも知れないし、
他の生徒の為を想ってぶん殴ったのかも知れないし、
自分の為にぶん殴ったのかも知れないし、B君の為を想ってぶん殴ったのかも知れない。
なぜ自分がいきなり暴力を振るったのか、A先生自身にも分からない可能性すらある。
それはA先生にしか分からない事で、
A先生の事を知らない私に分かる筈もない。A先生の真実はA先生にしか分からない。
A先生が普段から威圧的?
そう感じている生徒はどのくらいの割合でいるのだろう。
たまたまこの記事を書いた記者が、そう感じている生徒から話を聞いただけの可能性もあるし、
この記者の勝手な憶測や印象を記事にしただけの可能性もある。
インタビューを受けたかも知れない校長や同僚の先生の勝手な判断、言い回しが記事になった可能性もある。
もちろん大半の生徒がそう感じている可能性もあるし、
でも中にはA先生を気さくで優しいと感じている生徒もいるかも知れない。
A先生はまったく威圧してるつもりなんてないのに、生徒たちが勝手にそう感じているだけかも知れない。
顔が怖いとか、ガタイがゴツイとか、声が異様にデカいとか。
実はむっちゃ性格に問題のある先生なのかも知れないし、生徒想いの素晴らしい先生なのかも知れないし、
そのどちらでもない先生なのかも知れない。
なんて事を考えてみたところで、真実(ほんとう)の事など分からないのだから、
それ以上考えるのはやめる。
もしB君が他の生徒やA先生を侮辱するような事をしたり、言ったりしたんだとしたら、
ぶん殴っただけでA先生だけ首になるなんてのは不公平な気がする。
ぶん殴られた傷なんざ1週間もすれば治るが、心の傷は下手すれば一生引き摺る人もいる。
言葉の暴力は許されて、ぶん殴る行為だけ罰せられるというのは私にとってはおかしな事と感じられる。
だとしたらB君も罰せられて然るべきだ。
いきなりぶん殴るってどーゆー状況?
A先生はよっぽど短気な性格なのか、
それともよっぽど腹に据えかねる状況に立たされたのだろうか。
ただ単にB君が気に喰わないという理由でいきなりぶん殴ったんだとしたらとんでもない先生だが、
他の生徒の為を想ってぶん殴ったんだとしたら、そこまで酷い先生とは思えない。
自分を侮辱されていきなりぶん殴ったんだとしたら、一体何をされたのだろう。
そんなに腹に据えかねる様な真似をされたのだろうか。
A先生は単にふざけていたB君が気に喰わなくてぶん殴ったのだろうか。
授業中にふざけていて他の生徒の迷惑になるから、
他の生徒の為を想ってぶん殴ったのだろうか。
他に何か理由があるのだろうか。
ふざけていたってどーゆー状況だろう。
ただ大声でくだらない話でもしていたのだろうか。
それとも誰か他の生徒を侮辱する様な真似でもしたのだろうか。
A先生を侮辱するような事でもしたのだろうか。
もし、この記事が事実だったとして、
もし、私に考える事があるとするなら、以下の事である。
A先生はなぜB君をいきなりぶん殴ったのだろう。
B君がふざけてたって、何をどうふざけていたのだろう。
普段から威圧的って、誰の感想だろう。
生徒の大半がそう思っていたのだろうか。
まず、その記事を読んだ私の感想を述べると、
へー、そんな事があったんだ。
以上である。
この記事で分かる事実はA先生がB君をぶん殴って首になったという事だけ。
それが嘘の記事でなければね。
そして私はA先生の事もB君の事も知らない。
なので、感想は上記のみ。それ以上は特に何も考えません。
例えば、
どこかの学校でAという先生が生徒のB君をぶん殴って首になりました、
みたいな小さな記事が新聞やネットニュースに載っていたとする。
記事によるとこの先生は普段から生徒に対して威圧的だったという。
B君が授業中にふざけていたので、いきなりぶん殴ったらしい。
さあ、何が事実で何が真実でしょう。
事実、そして真実


なんて言葉があるが、両者は違う。
なんて事は誰もが何となく分かっている事だと思うが、
じゃあどう違うの?つーとね、